
8月30日21時から配信した溝口勇児CEO主宰の「NoBorder」は、またしても日本のメディア史において特筆すべき番組を世に送った。「日本の公安・スパイ問題」という、既存メディアが約30年間にわたって避け続けてきた核心的テーマを、これほど直接的に論じた番組は皆無であった。この番組の存在そのものが、日本の報道の不健全性と停滞を浮き彫りにしている。元公安警察官、大学教授、弁護士、政党党首らが集結し、国家安全保障の根幹を論じる──こうした議論が地上波では不可能であるという現実こそ、本来は検証されるべき問題であろう。
厳格な事実検証に基づく分析
さて、番組で提示された情報について、出演したジャーナリストの責任として、筆者による事実確認(ファクトチェック)の結果を報告しよう。
まずは京都大学の藤井聡教授のスパイについてのコメントだ。彼の言及したミトロヒン文書における石田博英元官房長官のコードネーム「フーバー」については、複数の史料により事実として確定している。1999年に英国ケンブリッジ大学出版局から刊行された『The Sword and the Shield』(クリストファー・アンドリュー、ワシリー・ミトロヒン共著)および、2005年の続編『The World Was Going Our Way』において、石田氏のコードネームと具体的な工作内容が詳述されている。同文書によれば、石田氏は1960年代から1970年代にかけてKGB(ソ連)の情報提供者として活動し、とくに日米安保条約改定に関する内部情報を提供していたとされる。これは単なる疑惑ではなく、元KGB幹部の証言と機密文書に基づく歴史的事実であり、いつもながら藤井氏の確かな情報は刮目に値する。
一方、歴史著作家・宇山卓栄氏による「日本に数十万人のスパイが存在する」「最も多いのはアメリカのスパイ」との発言については、検証可能な統計的根拠を確認することができなかった。筆者が照会した公安調査庁の『内外情勢の回顧と展望』(2020年版〜2024年版)、警察庁の『警察白書』、さらには米国務省の年次報告書『Country Reports on Terrorism』においては、日本国内のスパイ総数に関する推計値は一切記載されていない(もしかして別のソースがあるのかもしれない)。国会答弁においても、歴代内閣は「情報収集活動の実態について具体的数値を公表することは、今後の業務に支障を来すおそれがある」(2023年3月8日、参議院内閣委員会での岸田首相答弁)として一貫して回答を拒否してきた。
宇山氏の発言で問題だと思われるのは「アメリカのスパイが最多」という根拠不明の断定的なコメントである。日米同盟関係を考慮すれば、両国間には正規の情報共有協定が存在し、宇山氏のコメントだと、非合法な諜報活動と合法的な情報交換を混同する危険性がある。実際、2007年の日米情報保護協定(GSOMIA)以降、両国は制度化された情報共有を行っており、これを「スパイ活動」と呼んでしまうのは不適切であるといえよう。
APB株式会社の事例についても、より詳細な検証が必要である。同社は2022年に中国企業・寧徳時代(CATL)との技術提携を発表したが、2023年に経営悪化が表面化、2024年4月に東京地裁で民事再生手続きが開始された。破産ではなく民事再生であり、番組での説明は不正確な可能性がある。さらに重要なのは、同社の経営破綻が「産業スパイによる技術流出」に起因するとの確定的証拠は現時点で存在しないことだ。経済産業省の『産業技術の流出防止に向けた官民戦略』(2024年版)でも、APB社の事例への言及はされていない。
次に、筆者自身の提示したスパイ事例、とくにNSAによる首相官邸盗聴問題について事実関係の整理を行おう。2015年7月31日にウィキリークス(ジュリアン・アサンジ氏)の公開した機密文書によれば、NSAは2007年から2009年にかけて第一次安倍内閣および麻生内閣の閣僚・高官35名の通信を傍受していた。これは番組で筆者の説明した一連の政府高官への盗聴事案の実態と符合する。この件について、オバマ大統領(当時)は2015年8月3日の安倍首相との電話会談で陳謝したことが、外務省の発表により確認されている。
しかし、ごぼうの党・奥野卓志氏が番組で言及した「総理私邸部分への盗聴装置設置」「オバマ大統領の直接面会による謝罪」については、公開情報では一切確認できない。本日、外務省および官邸関係者に確認したが、そのような事実の存在は完全に否定された。安全保障に関わる未確認情報の拡散は、本質からの注意を逸らす結果を招く可能性があるので、信用のためにもより慎重であるべきだろう。
既存メディアの構造的欠陥
とはいえ、奥野氏やフィフィ氏も指摘している大手メディアの自己検閲は、民主主義の根幹を脅かすレベルにまで達していることに異論はない。諜報・公安関連の報道についても、1982年のレフチェンコ証言以降、事実上の「不可触領域」として扱われてきた。
具体例を挙げれば、2018年に海上自衛隊幹部が中国系企業関係者に潜水艦情報を漏洩した事件についても、大手メディアのほとんどが防衛省記者クラブを通じて「安全保障上の配慮」を理由に報道にストップをかけられている。2020年の学術会議問題でも、中国の「千人計画」への日本人研究者参加について詳細な調査報道を企画したが、「外交問題への懸念」によりボツとなっている。外務省のチャイナスクールとメディアの不健全な関係については、筆者も度々苦い経験をしており、取材者の誰もが抱く大手メディアの中国忖度という不信の原因になっているのは確かだ。
こうした報道統制の背景には、広告収入依存による経営上の制約、記者クラブ制度による情報統制、なにより存在しない政治的圧力への過度な忖度がある。結果として、国民の最も知るべき情報ほど報道されない逆説的状況が常態化している。
















