上杉隆(ジャーナリスト)
「ジャーナリズムにおいて、ミスを犯すのは罪ではない。真の罪はその過ちを認めないことだ」
筆者がニューヨーク・タイムズ時代に学んだ原則である。人間である以上、誤りを犯さない記者はいない。だからこそ、報道の信頼を支えるのは無謬性ではなく、誤りに直面したときの対応なのだ。何を間違え、なぜ間違えたのか、そして、どのようにそれが起きたのか。過ちのプロセスを読者や視聴者に示すこともジャーナリズムの責任である。
望月衣塑子氏の対談本をめぐる問題で、いま彼女にもっとも必要なのはこうした対応かもしれない。
いま望月氏は、自らの言葉による説明を求められている。また、彼女の所属する東京新聞には、同氏の過去記事を対象とする徹底した検証が必要だろう。
謝罪によって説明を省くべきではない。編集の問題によって著者の責任を薄めるべきでもない。この二つを曖昧にしたままで信頼の回復はあり得ないののは当然だが、すべての結果責任は記者(著者)に帰する。
筆者は、望月氏の行動力には常々敬意を表しており、その仕事ぶりについても否定する者ではない。だが、それと今回、彼女の起こした問題への追及は別だ。評価してきた相手といえども、検証や批判を控えるべきではないだろう。
5つの過ち
朝日新聞出版は11月1日、望月氏と内田樹氏の対談本『常識なき世界を生き延びるために』について、電子版を含めて出荷・販売を中止し、書店在庫を回収する方針を発表した。望月氏の発言部分に「日本中学生新聞」を創刊した川中だいじ氏に関する複数の誤りがあったためだという。
さて、具体的に何が問題なのだろうか。川中氏の投稿と朝日新聞出版の訂正を照合すると、少なくとも五つの論点が浮かび上がる。
第一 215ページの「老害」という記述
同書には〈川中くんは周りの子から「老害」と言われたり〉とあった。だが、当の川中氏は次のように否定する。
「『老害』という言葉が若者の間でよく使われていた時期に、そのような表現はよくないということを話したことが、なぜかぼくが『老害』と言われているという内容にすり替えられています」
日本中学生新聞公式X
言葉使いへの川中氏の批評が、なぜか本人に対する周囲の言動へと変わっている。この短い一文で、本人だけでなく、同級生の振る舞いまで事実と異なって描くという二重のミスを犯している。
第二 同じページにある発言の主語の置き換え
〈私の中学生の息子が〉は〈川中くんが〉に、〈息子は〉は〈川中くんは〉に訂正された。川中氏は「ぼくが話した内容であるにもかかわらず、主語を望月氏の息子に置き換えられていました」と指摘している。これは驚きだ。なぜ、ここで著者である望月氏の息子を登場させたのか?そして、それが間違いなのだ。単なるミスでは済まされない。
第三 217ページの取材場面に関する記述
〈ぶら下がりで当てましたが〉から〈ぶら下がりで〉が削除された。ぶら下がりということは少なくとも対面しているということだ。取材の状況を具体的に描く言葉がなぜ入り、そして訂正で消えたのか。対談時の発言にあったのか、編集の過程で加わったのか。望月氏が説明をしないのならば、録音や記録との照合が必要である。
第四 239ページの学校に張り出した新聞を教師に剥がされたという話
川中氏は「小学生の時に学校に新聞を張り出し、先生に剥がされたという事実はありません」と明確に否定している。本人の経験だけでなく、教師が何をしたかについても、事実と異なる記述が公表されたことになる。これはもはやミスではなく創作ではないか。同様に望月氏の説明が俟たれる。
第五 「日本中学生新聞」の創刊経緯
訂正前には、外務省に取材を求めたところ〈たらい回しにされたあげく、メディアの記者じゃないとダメだと言われた〉ため、新聞を出し始めたと記されていた。訂正後は、次の文章になっている。
〈『日本中学生新聞』は23年5月のG7広島サミットの取材申請をするために創刊しました〉
日本中学生新聞公式X
取材拒否への対抗としての創刊と、取材参加のための創刊では行動の意味がまったく変わってしまう。出典:日本中学生新聞公式X
取材者ならばわかるが、これらは誤植や校閲で起こるミスではない。発言の帰属、取材場面、教師の行為、創刊の動機という、事実の骨格に関わっていることの誤りであり、現時点では捏造か創作の疑いが強いと言わざるを得ない。
教師に新聞を剥がされ、行政に取材を拒まれたという筋立ては、川中氏を「権力に抗する若者」として読ませようとしたのだろうか。意図的な脚色だったと断定はできないが、結果として読者の受け取る人物像は変わってしまっているだろう。望月氏は説明を、朝日新聞出版は検証しなければならないだろう。
主語はどの段階で変わったのか
主語の置き換えについては、望月氏側の説明も併記する必要がある。
望月氏は10月28日の投稿で「ご自身の発言や経験が違う形で記されたこと」に言及し、「著者として、公表前に一つひとつの内容を十分に確認すべきでした」と書いている。出典:望月衣朔子氏のX投稿
さらに、11月2日のJ-CASTニュースへの回答では、望月氏は過ちの原因についてこう説明している。
「現時点では、対談で話した内容が、原稿にまとめる段階で異なる表現になった箇所と、私自身の記憶違いによる箇所があったと認識しています。いずれについても、著者である私が公表前に十分に確認し、誤りを正すべきでした。確認が不十分だった責任を重く受け止めています」
J-CASTニュース
望月氏は経緯の確認を進め、川中氏への説明を踏まえて公表する予定とも述べている。
その言葉が事実ならば「本人は何も説明していない」と書くのは正確ではないかもしれない。ただし、現時点では、川中氏の話が息子の話になった経緯などのようにあまりに謎が多い。編集の過程で生じたのか、本人の記憶違いによるのものか、いかなる誤りであろうと本人が現時点で覚えていることを説明すればよいだけの話である。なぜ説明を後回しにするのだろうか?
なぜ、筆者はこの過ちにこだわり、これほど重要視しているのか。他人から聞いた話が、著者自身の家族の話になれば、読者には情報源との距離まで違って伝わる。変わるのは登場人物だけではない。その話を信じる根拠すべてが変わってくるのである。
川中氏の人生は、望月記者の論旨を補強するための素材ではない。
だからこそ、望月氏には説明責任が生じており、速やかに捏造や創作を否定しないと、彼女自身のキャリアにまで影響することになるのだ。筆者のいう「捏造」や「創作」の疑いは結論もなければ、一方で脅しでもない。望月氏の今後を思うからこそ、一刻も早くこの問いに対する答えを求めているのである。
謝罪と原因の説明は別
望月氏はすでに謝罪し、原因についての認識も示している。しかし、謝罪と原因の説明は別ものだ。「確認が不十分だった」は責任の表明にはなっても、個々の記述が生まれた経緯の説明にはならない。
教師や外務省に関する話は、何を根拠に語られたのか。記憶違いなら、何と何を混同したのか。著者はどの版を確認し、何を修正したのか。
川中氏が求めているのもそうした説明である。
「最初に謝罪するなら分かりますが、今は、なぜこういうことが起きたのかという検証と説明をしてほしいです」
川中氏X
川中氏の問いには、謝罪の言葉を重ねるだけでは答えられない。
望月氏と編集部の手元には、録音、文字起こし、初稿、修正履歴、校正刷りがあるはずだ。これらを可能な限り照合することで検証は可能だろう。
五つの問題を「確認不足」の一語でまとめず、それぞれについて確認できたことと確認できないことを分けて示す。仮に上記の資料等が一切残っていないのならば、記憶の限り公表する必要もある。
誤りがあったという結果だけから、書き手の故意まで認定することはできない。過ちをごまかしたと断定するにも根拠が要る。批判する側も、その基準から逃れられないゆえに、物証となる初校ゲラなどを含むすべてのものへの検証が不可欠なのだ。
疑いを晴らすにも、責任を明らかにするにも同じ作業が必要だ。そして、それらは、戦争取材や歴史取材と違って身近なところで起きており、それほど難しい仕事ではないはずだ。
著者の名前は飾りではない
ここで責任の所在を曖昧にしてはならない。出版社に一義的な責任を負わせる議論に、朝日新聞出版で本を出し、東京新聞でも執筆したことのあるジャーナリストとして筆者は賛同しない。
自らの名で公表した文章の責任は、結果すべてを著者が引き受けるべきだ。これは法的責任の配分ではなく、文章を生業にするジャーナリストの職業倫理の話である。対談を別の人が原稿にまとめたとしても、この原則は変わらない。
著者の名前は飾りではない。取材も、文章も、結局は著者(記者)に文責があるのだ。朝日新聞出版はJ-CASTニュースの取材に対して次のように回答している。
「著者、ライター、編集者、校閲が内容を確認しましたが、元の発言や資料との照合が十分ではなく、誤りを発見できませんでした」
J-Castニュース
朝日新聞出版は、編集過程で川中氏本人への事実確認を行わなかったことも認めているが、さすがにそれは著者の仕事だろう。「編集者も見落とした」は著者の免責理由にならない。誰が文章を変えたかという原因究明と、誰が自分の名で公表したかという著者責任を、混同してはならない。
もちろん、著者が責任を負うからといって、掲載・刊行した組織が責任を免れるわけでもない。望月氏が自ら説明するのは当然のこと、朝日新聞出版は、その説明を受け取るだけでなく、あらゆる資料や証拠に照らして確認しなくてはならない。著者の責任と組織の検証責任は、互いを免除するものではない。
過去記事すべてを、検証の対象に
一方で、望月氏の所属する東京新聞は、彼女の過去記事すべてを検証対象とすべきである。今回の書籍全体と、同社の刊行してきた同氏の著作・寄稿を検証するのは当然だが、他社の著作についても検証を行う必要がある。東京新聞の看板を背負う社員記者としては当然のことだ。
これは、彼女の全業績が虚偽だという主張ではない。一冊に誤りがあったから、過去の仕事もすべて誤っていると決めつけているわけでもない。今回の問題が他にも及ぶのか、それとも今回に限られるのか。その双方を確かめるために対象を恣意的に絞らない検証が必要なのである。
対象、方法、期限、公表方針を示し、社外の目を入れるべきだろう。「問題なし」という結論で望月氏の名誉を守るためにも、徹底した検証が必要なのだ。
問題が今回の書籍に限られると確認できれば、それは重要な成果となる。全面検証は、望月記者を葬るためではない。逆に彼女の仕事を検証に基づいて評価し直し、名誉を回復するために必要なことなのだ。
訂正は、読者に届いて初めて成立する
筆者のかつてのニューヨークタイムズ時代の同僚、ジュディス・ミラー氏の大量破壊兵器報道をめぐっては、同じく筆者の上司だったニック・クリストフ氏が、オプエドで政府情報に疑問を呈した。この論説は政府の情報操作を問うもので、ミラー氏個人への名指しの批判とは区別すべきだが、同じ新聞内から報道の前提を問い直す異論が示された意義は大きかった。参照:クリストフ氏のオプエド
ニューヨーク・タイムズはのちの検証で、「当時も異論があり、いまでは疑わしく思われる情報に、十分な留保を付けなかったり、異議を唱えないままにしたりした例があった」と認めている(筆者訳)。今回とは規模も背景も異なるが、公表した情報を自ら検証し直す責任に洋の東西は問わないだろう。出典:同紙検証声明「The Times and Iraq」
話は逸れるが、ミスの責任を一度の謝罪で終わらせない。筆者の主張してきたコレクション、すなわち訂正のシステムはそのためにあるのだ。
「誤報があれば速やかに訂正し、その経緯を明示する」
訂正は、間違った箇所を正しい文章に置き換えるだけの作業ではない。何が誤りで、何が事実だったのかを、誤った情報を受け取った読者に伝える仕事でもある。出典:筆者(上杉隆)の訂正制度に関する論考
元の記述、正しい事実、訂正日、誤りが生じた経緯、著者名を明示し、元記事からたどれる場所に残す。電子版や配信先にも訂正を反映する。調査が終わっていないなら、確認できた事実と未解明の点を分けて、次の報告時期を示す。無告知の書き換えでは、文章は変わっても、読者の認識は改まらない。
書籍の回収も同じだ。回収によって止められるのは、これからの流通である。すでに読まれた記述まで回収することはできない。購入済みの読者に向けた訂正と説明が必要だ。販売を止めたことと、誤情報を正したことを同じ成果として扱ってはならない。
今回、川中氏の投稿とJ-CASTの取材によれば、10月17日の申し入れから27日の訂正、11月1日の回収方針発表まで時間を要した。誰がいつ誤りを把握し、どの段階で何を判断したのか。記述が生まれた過程だけでなく、指摘された後の対応も検証対象となるのは言うまでもない。参照:J-CASTニュース
誤って書かれた「被害者」側に、訂正を実現するための労力まで負わせ続けてはならない。川中氏の意向を尊重し、説明と訂正は、書いた側の仕事として早急に進めるべきである。
問われているのは、誤りの後の仕事だ
一方で、ミスを犯しただけで、ジャーナリストのキャリアを終わせるべきではない。誤りを認め、原因を明らかにし、説明を尽くすことで、仕事を続ける道は開かれるべきだ。
しかし、捏造や創作を事実として差し出すことは、別の問題である。それは文章の精度を損なうだけではない。事実を伝えるというジャーナリズムの存立理由そのものを壊す。その意味で、捏造や創作はジャーナリズムの死を意味し、一度でもやってしまった記者は退場を余儀なくされてきた。
今回の記述がどのような性質のものだったのかは検証によって明らかにすべきことである。繰り返すが、批判する側が先回りして断罪してはならない。同時に、書いた側が「確認不足」と言って、それで決着するわけでもない。
厳しいことを言うようだが、今回の望月氏の問題を一冊の本の不手際として閉じるべきではない。取材相手の言葉をどう扱い、自らの記憶をどこまで確かめ、自分の名で公表する文章に何を保証するのか。望月氏自身の取材方法とジャーナリストとしての姿勢が問われている。自らの仕事の根幹に関わる大きな問題として認識し、望月氏は真摯に向き合うべきである。
望月氏は、ミラー氏になるべきではない。ここは踏ん張りどころだ。筆者の求めるのは退場ではなく、説明である。誠実に対応してほしい。
同じく東京新聞と朝日新聞出版も、本人の謝罪をもって検証に代えることはできない。自社が掲載・刊行した過去の仕事を調べ、問題がなければ根拠を示し、誤りがあれば読者に届く形で訂正する。著者に代わって謝ることではなく、著者(記者)を検証することが、両社のなすべき仕事なのだ。
「ミスを犯すのは罪ではない。真の罪は過ちを認めないことだ」
このジャーナリズムの原則は、他人を裁くためではなく、自らの仕事を律するためにある。示すべきは反省の深さではない。何が起きたのかを確かめ、読者に明確に説明するその作業そのものである。
権力に説明を求め続けてきた望月記者が、自らへの問いには謝罪だけで応じることがあってはならない。その非対称を認めれば「説明責任」は他人を追及するためだけの道具だったとなってしまう。
望月氏には自らの言葉による説明を、東京新聞には彼女のすべての過去記事の検証を求める。それがジャーナリズムを守る唯一の残された道だ。
出典:https://note.com/takashiuesugi/n/ndeab6ef269bd
(上杉 隆)
編集責任者:上杉 隆












